主日礼拝のあと やがて主日礼拝がはじまりました。聖公会の儀式に参加するのは初めてでしたが、その名の通り聖公使徒教会の公祈祷に必要な要素を備えつつ、平易な現代語で進行し、聖職者からの一方通行でなく信者さんたちが主体的に参加されている雰囲気が感じられ、快い印象を受けました。カトリックや正教の儀礼で感じられる、整った形式の美しさと、プロテスタント諸派の多くで感じられる、信者さんの主体性を、同時に備えている感じと言えばいいのでしょうか。キリスト教のお祈りが初めてのひとでもなじみやすいのではないでしょうか。
お祈りのあとは信者さんたちと一緒にお昼を頂き、それから教会堂についてのお話を伺いました。写真の展示を見て推測していた通り、皆さんウォーラー神父のことを尊敬して、その作品である聖救主教会の建物を末永く、大切に使っていきたいという、一致した考えを持っておいででした。この思いが、120年の長きに渡って教会堂を美しく維持してきた原動力になっているのだと感じました。
教会の立地について意外なお話も聞けました。聖救主教会は県庁舎にも近い官庁街の中、信州大学の向かいという場所に立っています。古いキリスト教会が県庁所在地の中心街に立っているというのは、教派を問わず珍しくない光景ですが、私はこれまで、そうした立地は、明治維新期に世界観の変化に不安を覚えてキリスト教に入信した士族が、武家屋敷などを寄進した結果と考えていました。実際、東北地方ではそういう例が多く見られたのですが、長野は違いました。善光寺の門前町として栄えた長野では、中心市街地は仏教関係の施設と門前の商工階級に占められていたので、キリスト教は当時は町外れだった地域に拠点を置かざるを得なかったのだそうです。では、なぜそこが官庁街になっているかというと、なんと県庁などの公的機関も同じ理由で伝統的な都心部から締め出されていたのだそうです。日本が急激に中央集権化した明治時代、国家権力が宗教権力に遠慮して、外来宗教だったキリスト教と一緒に新開町に展開せざるを得なかった例が、まさか日本にあるとは思わなかったので、驚きました。
最後に、午前中に窓の刳形を見て感じた疑問を信者さんにぶつけてみました。あの造形はとても建築の素人が設計したとは思えません。ウォーラー神父はカナダの神学校で教育を受けたとのことですが、そこでは海外に行く可能性のある神学生に建築教育を行っていたのではないでしょうか。ちょうどド・ロ神父のいたパリ海外宣教会が、厳しい建築教育を課していたように。しかし、ウォーラー神父を尊敬する信者さんたちも、さすがに神学校のカリキュラムまではご存知ありませんでした。ただ、聖救主教会の司祭様は代々、ハイ・チャーチと呼ばれる、聖公会のなかでカトリック寄りの流れをくむ人びとから選ばれているとのことで、カトリックの神学校に近い教育を受けているかもしれないとのことでした。とはいえ確かなことはわかりませんでしたので、この問題は現在まで私自身の宿題として残っています。
まとめ 県庁所在地の高台に建つ、築120年の煉瓦の教会堂。その内部では、窓の刳形や天井を支える梁の凝った造形が、とても上質な空間を形作っていました。穏やかでフレンドリーな信者さんたちは、カナダから伝わった信仰の継承を自分たちの問題として主体的に考えていました。そのことが、この教会堂を現在まで美しく維持してきた秘密ではないかと思いました。こうした教会堂を次代に残していくために、少しでもお手伝いが出来れば光栄に思います。
池田雅史